ドイツ人の戦争

 2010年4月は、ドイツ連邦軍にとって創立以来最も犠牲者が多い月となった。4月2日にはアフガニスタンのクンドゥズ近郊で、パトロールをしていた空挺部隊の将兵がタリバンの待ち伏せ攻撃にあって、3人が戦死し8人が重軽傷を負った。それから13日後の4月15日には、バグランという町の近くで軍医らの乗った装甲車がタリバンのロケット砲によって狙い撃ちされ、4人が死亡し5人が重軽傷を負った。ドイツが2002年にアフガニスタン駐留を始めて以来、戦死したドイツ兵の数はこれで43人になった。

 メルケル首相は4月9日にニーダーザクセン州で行われた3人の兵士の葬儀に参列し、「ドイツ全体が皆さんに感謝し、敬意を表します」と述べ彼らの棺の前で頭を下げた。国家の最高指導者にとっては、政府の命令で戦場におもむき、若い命を落とした兵士たちの弔いの場に姿を見せることは最もつらい瞬間だろう。しかし彼女にとって、若い犠牲者たちの葬儀に参列するのがこれで最後という保証はない。

いやこれからも死者は増えるだろう。タリバン・ゲリラは、以前より巧妙な戦法を駆使してドイツ軍部隊を罠におびきよせるようになってきているからだ。前線の兵士たちからは「路側爆弾の破片から兵士を守るだけの装甲板で補強された車両が少ない」とか、「兵士たちは装甲車の運転の仕方について、ドイツで十分な訓練を受けないまま前線に送られている」という批判の声が上がっている。政府はアフガンでの犠牲者を減らすために、早急に対策を取る必要があるだろう。

 グッテンベルク国防大臣がクンドゥズで3人が戦死した後に発表した談話の中で認めているように、ドイツ軍は第二次世界大戦後初めて、本格的な戦争に加わっているのだ。今後アフガンでの戦いは益々エスカレートしていくだろう。たとえば国防省は、前線の兵士たちの間で待ち望まれていた自走榴弾砲2両を、装甲板で補強された車両とともにアフガンに投入することを決めた。

 だが自走榴弾砲を前線に送るだけで、戦局を変えられるかどうかは未知数だ。その理由は、タリバン・ゲリラがわざと民間人が多く住む地域に隠れて、ドイツ軍の車列を攻撃することだ。タリバンは、民間人が巻き添えになる危険が高い地域には、ドイツ軍や米軍が砲爆撃を行わないことを知っている。これでは自走榴弾砲も大して効果を発揮できない。

 去年9月4日に、タリバンが盗んだ2台のタンクローリーに対して米軍の戦闘機が爆弾を投下し、タリバン・ゲリラや市民少なくとも50人が死亡するという事件があったが、この爆撃命令を出したのはドイツ軍のクライン大佐だった。今年4月19日、カールスルーエの連邦検察庁は「クライン大佐は、現場に民間人がいることを知らなかったので、爆撃命令は国際法に違反しない」として、大佐を刑事訴追しないことを決めた。

 検察が訴追をあきらめた背景には、政治的な配慮もあるだろう。夏には気温が50度にも達するアフガンの厳しい環境でドイツ兵たちが汗と血を流している中、将校を訴追すれば前線の兵士たちから強い不満の声が上がることは目に見えている。しかしドイツ人が下した爆撃命令によって、罪のない多数のアフガン市民が死んだことは、間違いない。

戦後半世紀にわたって軍事介入については消極的な態度を保ち、血で手を汚すことがなかったドイツは、今や「
Unschuld(罪のなさ、純真さ)」を捨てて米国や英国と同じく「戦う国家」に変身したのだ。ドイツがここまで変わるとは、つい20年前には誰にも想像できなかった。2001年の同時多発テロは、平和国家ドイツを変貌させ「対テロ戦争」の大義名分の下に、行き先の見えない茨の道を選択させたのである。

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週刊ドイツ・ニュースダイジェスト 2010年5月